映画におけるメディア・リテラシー

とあるテレビ番組で、ある映画の内容その他に関して、議論が交わされていました。この映画の内容の是非については内容を見たわけではないのでなんとも言えないのですが、メディア・リテラシー的な視点から、この番組の出演者の発言について気になるものがありました。

「この映画にはナレーションがつけられていない。事実のみを映像として淡々と流しているから特定の政治性はなく極めて中立だ」

というような内容の発言です。確かに、メッセージ性の強いナレーションを映像に付加することで、製作者の意図をより明確に伝えることはできるようになると思いますので、これがない分、そういったメッセージ性が薄まっているとみることはできるかもしれません。しかしながら「ナレーションがない」「事実のみを映像として流す」という2点は、内容の中立性を担保することにはなりません。

メディアの伝える内容には、当事者の悪意の有無に関わらず、何らかの偏向が必ず含まれるというのがメディア・リテラシーにおける考え方のひとつです。映画であれば、限られた時間の中に映像を収める、つまり、多くの映像の中から映画に採用する映像を選び出すという過程が必ず求められるはずです。全くランダムに機械的な選別などを行わない限りは、この過程自体に製作者の意図が必ず含まれてしまうのです。

特にドキュメンタリー映画などでは(一切のやらせなどがないと仮定すれば)映像として収められている内容は確かに事実のみと言ってもよいでしょう。しかし、その映像をどのように構成し、選別するかによって、製作者の意図が含まれるのです。逆に、そこにメッセージ性を含められないのであれば映画監督のモチベーションも半減してしまうのではとも思えます(私は映画監督をやったことはないので、そこは実感できませんが)。

メディア自身が、メディアとはこういうものだ、という定義・解釈を暗に示すときには、上記のような核心と思われる部分を隠すことが多いように感じられます。 メディア自身は、その成り立ちから、メディア・リテラシーについて正しく伝えられないジレンマを潜在的に抱えていると私は考えています。