「メディア・リテラシー」をテーマにしたテレビ番組(2)

昨日の続きです。

メディア自身がメディア・リテラシーに言及するということは、自分達が突かれると痛いところに言及しなければいけないことになります。

どうしてでしょうか?

メディア・リテラシーのひとつの重要な要素として「メディアの伝える内容には善意・悪意に関わらず、必然的になんらかの偏向が含まれてしまう」ということがあります。

以前のエントリで、「ニュース番組でとりあげる事件を選ぶだけで、そこにはなんらかの意図が入り込む」というようなことを述べたと思います。私たちは普段なんとなく、メディアの報道内容は「中立」であり「客観的」であり「公平」であり、何よりその内容は「事実」である(あってほしい)という前提をもってそれに触れていると思います。実際、日本のメディア、たとえばテレビ・ラジオのようなメディアには「放送法」によって放送内容の公平性、中立性、事実性を保つことが義務付けられています。

であるがゆえに、たかがバラエティ番組の内容であっても、実験データの捏造があれば社会問題になったりするわけです。ニュース内容の選別は、事実を捻じ曲げているわけではないですが、ニュースでとりあげる事件の内容自体は「事実」であっても、選別基準の客観性や公平性、中立性に関しては私たちは注意を払わなければなりません。

メディア・リテラシーを知るということは、ある意味メディアに我々が期待している前提を覆すようなことになりかねません。
メディア自身が、メディアの中立性、公平性、事実性の成立の難しさを強調することは、放送法の点や視聴者の意識を考えると、非常に微妙な問題なのです。ですから、昨日のエントリで話題にした番組も、興味深い内容ではあったものの、メディア自身が言及している以上は、メディア・リテラシーの核心には迫りきれないジレンマ、すなわちメディア自身に不利益にならない程度の内容だけを選別せざるを得ない現実、があったように思います。