[雑記][メディア・リテラシー] 衆議院の解散とお昼のテレビ番組

今日、衆議院が解散されましたね。

ランチで入ったお店で、テレビを見ていましたら、TBSの番組かと思うのですが、前回の衆議院選挙の経験者に聞く、みたいな企画で、堀江貴文氏とドクター中松氏にインタビューした映像を流していました。人選が、いかにもお昼のバラエティ番組だなという感じなのですが、堀江氏はしきりに「選挙はお金がかからない、というか使えない、使い道がない」というようなことを強調されていました。中松氏は、事務所は自宅、選挙カーは自家用車とするなどの工夫ややりくりで、堀江氏と比べさらに3分の1程度の費用で済んだ、というようなことが番組で強調されていました。

メディア・リテラシー的な観点でこの企画を見たときに、いったい、この番組の制作者のどのような意図がこの企画に込められているのか、正直言ってよく分かりませんでした。選挙にまつわるお金の話題を取り上げたいのであれば、このお二人だけではなく、一般的な政治家の費用も取り上げるべきですし、堀江氏が言っていた「なんで選挙にそんなにお金がかかるか理解できない」というような発言も、堀江氏は選挙期間中しか選挙運動をしていないわけで、常日頃から政治活動をしている政治家のそれと比較するのもなんだか、不自然な感じがしました。

メディア・リテラシーのひとつの重要な要素として「メディアの伝える内容には善意・悪意に関わらず、必然的になんらかの偏向が含まれてしまう」ということがあるのですが、バラエティ番組の場合はそもそもはっきりした意図を持って番組を制作しているでしょうから、 これもあてはまらないのかもしれませんね。

映画におけるメディア・リテラシー

とあるテレビ番組で、ある映画の内容その他に関して、議論が交わされていました。この映画の内容の是非については内容を見たわけではないのでなんとも言えないのですが、メディア・リテラシー的な視点から、この番組の出演者の発言について気になるものがありました。

「この映画にはナレーションがつけられていない。事実のみを映像として淡々と流しているから特定の政治性はなく極めて中立だ」

というような内容の発言です。確かに、メッセージ性の強いナレーションを映像に付加することで、製作者の意図をより明確に伝えることはできるようになると思いますので、これがない分、そういったメッセージ性が薄まっているとみることはできるかもしれません。しかしながら「ナレーションがない」「事実のみを映像として流す」という2点は、内容の中立性を担保することにはなりません。

メディアの伝える内容には、当事者の悪意の有無に関わらず、何らかの偏向が必ず含まれるというのがメディア・リテラシーにおける考え方のひとつです。映画であれば、限られた時間の中に映像を収める、つまり、多くの映像の中から映画に採用する映像を選び出すという過程が必ず求められるはずです。全くランダムに機械的な選別などを行わない限りは、この過程自体に製作者の意図が必ず含まれてしまうのです。

特にドキュメンタリー映画などでは(一切のやらせなどがないと仮定すれば)映像として収められている内容は確かに事実のみと言ってもよいでしょう。しかし、その映像をどのように構成し、選別するかによって、製作者の意図が含まれるのです。逆に、そこにメッセージ性を含められないのであれば映画監督のモチベーションも半減してしまうのではとも思えます(私は映画監督をやったことはないので、そこは実感できませんが)。

メディア自身が、メディアとはこういうものだ、という定義・解釈を暗に示すときには、上記のような核心と思われる部分を隠すことが多いように感じられます。 メディア自身は、その成り立ちから、メディア・リテラシーについて正しく伝えられないジレンマを潜在的に抱えていると私は考えています。

アメリカ大統領選挙とメディア・リテラシー

日本ではそれほど注目されていないかもしれませんが、ケーブルテレビでCNNを見ていると、一日中その話題をやっているのではないか、と思えるくらい(ちょっと大げさですが)、アメリカ大統領選挙について大きく取り上げています。

国が違うので当然といえば当然ですが、 日本とアメリカでは大統領選挙についての取り上げ方がかなり違っています。

日本ではちょっとした民放局のニュース・ショーですと、大統領候補として紹介されるのは2人だけ。ヒラリー・クリントン候補とバラク・オバマ候補です。 ニュース番組を一字一句漏らさず食い入るように見ているならまだしも、テレビをつけっぱなしで軽く流して見ている(私もその一人ですが)ような人だと、大統領選挙はこの2名のどちらになるかを争っているのだ、と思ってしまってもおかしくないくらいです。予備選挙の結果で大統領が決定すると思う人もいらっしゃるのではないでしょうか。

実際のところ、上記の2人は有力な大統領候補ではあるのですが、あくまでいち政党(民主党)の大統領候補を争っている状態で、首尾良く党の代表候補となった後に、本選挙で共和党(やその他諸派)の候補に勝利しなければ大統領になれません。

なのに、なぜその2人だけを日本メディアは取り上げるのか。これは、私が偉そうに述べるまでもなく、これを読んでくださっている方もお分かりかとは思いますが、この2人の候補(とその争い)は、メディアにとってニュースバリューが高いからです。もしどちらかが大統領になった場合、クリントン候補は女性初、オバマ候補は黒人初のアメリカ大統領になるわけで、この2人のどちらか1人だけしか最終的な大統領候補になれないという争いの過程も、興味深いものになるわけです。

また、外国の選挙の場合、国内の選挙のように公職選挙法の制限を受けない(と思われる)のも、この傾向に拍車をかけるのだろうと思います。国内の選挙の場合、候補者についての報道に内容の不公平や機会の差別があってはいけないと定められているために、選挙に関連して、ある有力候補について報道したあとは、どんなに泡沫と言われる候補であっても、「そのほか、ご覧のような方が立候補しています」と全候補者の氏名や年齢、所属などについて紹介します。

アメリカ大統領選挙の場合、現在は党の代表を決める選挙で、いわゆる国政選挙でもないので、なおさらそのような面の制約は緩いと言えるでしょう。

「報道しないこと」は、選挙など法令に定められたものを除けば、虚偽や不作為にはあたらないとされることが多いと考えられます。これ自体、「メディアの伝える内容には、当事者の悪意の有無に関わらず、何らかの偏向が必ず含まれる」という、メディア・リテラシーの一種と考えられます。影響の深刻さは、ケースバイケースであると言えますが、上記の報道については、単一的な方向(国外の情報を国内メディアが選別した結果)からの報道のみで判断してしまうことの危険性の一端が示されているといえそうです。

テレビ番組における街の声

8月末のことになりますが、とあるテレビ番組で、夏休みの宿題を代行する業者がいるという話題をとりあげていました。その業者のことについてはこのエントリではふれませんが(思うところはありますけど)、それ以上に気になったのはこの番組に出演していたキャスターの言葉です。

この番組では業者についてひととおりレポートしたあと、「街の声」として、街頭インタビュー映像を流していました。それらの意見は総じて「けしからん」「理解できない」というようなものでした。

これを見ていたスタジオのキャスター(ジャーナリスト)が、こんな感じのことを言ったのです。

「街の声が批判的なものばかりでほっとしました」

私はこのジャーナリストは好きなのですが、この発言はいただけないと思いました。メディア・リテラシーの観点からあまりにも問題のある発言だからです。この発言は、全く無作為にインタビュー映像を、なんの選別もせずに流したものであれば、至極真っ当なものといえるのですが、実際はそうではないのです。

あらゆるメディアには、当事者の悪意の有無に関わらず、何らかの偏向が必ず含まれる、というのがメディア・リテラシーの考え方です。この番組の企画にしても、業者のやり口を紹介した後、街の声が「別にいいんじゃないですか」「私も頼みたい」だったら、この企画自体締まらないわけで、批判的な街の声を優先的に取り上げてバランスを取ろうとすると考えるのが自然です。

テレビメディア側に属するアナウンサーが言うならまだしも、ジャーナリストと言われる肩書きの人がそういう認識でいるというのが、ちょっとショックでした。ジャーナリストも広い意味ではメディア側の人間だからでしょうか。

放送倫理・番組向上機構(BPO)の改革

昨今のメディア報道における捏造問題の高まりを受けて、「放送倫理・番組向上機構」(BPO)では、「虚偽放送と疑われる事案が発生した場合に、放送倫理上の問題の有無を審理する『放送倫理検証委員会』(委員長=川端和治・弁護士)を5月12日に設立」(「」内は下記ホームページの発表より抜粋)したのだそうです。

放送倫理検証委員会の設立について

(BPOのホームページ)

私は研修講師だけでなく、ITエンジニアの経験もあるのですが、エンジニアがものを作るときの大原則として「作った当人がテストをするな」というのがあります。作った当人がテストをすると、当然ながらその内容が(無意識でも)甘くなってしまうことが懸念されるからですね。上記の「放送倫理検証委員会」のメンバーを見ますと、確かに第三者から構成されており、「番組を作った当人が内容を検証する」ような状態にはなっていないようです。

しかしながら、そもそもBPO自体が、NHKと日本民間放送連盟が設置した第三者機関であり、理事の顔ぶれを見れば、放送関係者が勢揃いです。

BPOについて
(BPOのホームページ。ここから役員の名簿も見ることができます)

IT企業の場合とて、請負側のIT企業内でテストをするわけですから、構図としては同じと言えなくもありません。ですが、IT企業の場合は顧客企業との間に取引関係がありますから、テスト(検証)が不誠実で顧客の信頼を失った場合は、今後の取引中止など営業の継続に深刻な影響が出ます。

しかしながらメディア(本エントリでは、放送メディアのことを指すとします)と視聴者の場合、視聴者は直接の取引相手ではありません。NHKとは受信料支払いという契約関係があるものの、内容が信頼できないからといって容易に契約を解除できないのが現状でしょう。視聴者の信頼失墜は、直接的にメディア側の打撃とはならないわけです。問題をなるべく早く沈静化し、視聴者がそれを忘れてくれさえすれば、何事もなかったかのように営業を続けられるでしょう。メディアの捏造などによって、よほどの被害を被った人でない限り、ほとんどの人は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」となるわけです。

営業停止や広告の放送禁止(NHKの場合は受信料の減額)など、実効性を伴う処分が伴わない限りは、BPOがいくら頑張ってみたところで、おそらくめぼしい効果はあがらないのではないでしょうか。

同時に、メディアに接する側の、メディア・リテラシーの醸成も必要です。

NHKとメディア・リテラシー

NHKが、ボストン・レッドソックスの松坂投手がメジャー初勝利をあげたことに関連するニュースを、連日に渡って放送したことについて、尾身幸次財務相が「この種の問題をNHKが毎朝取り上げるのは、ニュースのバランスからみて問題がある」「世界や人類全体の動きを、もうちょっと多く放送しないと、公共放送としての意味が薄れてくる。経済や社会、国際関係のニュースをバランスよく報道してもらいたい」と苦言を呈したそうです。

それに対するNHKの反論は「ニュースバリュー(価値)が高く、国民の皆さんの関心が高いという判断をしました」というものだったそうです。

このNHKの判断基準について、少し考えてみたいと思います。

メディアの伝える内容には、当事者の悪意の有無に関わらず、何らかの偏向が必ず含まれるというのがメディア・リテラシーの考え方です。例えば民放では「視聴率」というものを非常に重視しているといわれています。それはなぜでしょうか。ご存じの通り、民放においては、スポンサー(広告主)からのCMによる広告収入が事業収入の大部分を占めています。スポンサーは費用対効果の観点から、同じ金額を支出するのであれば、当然ながらより効果の高いものを選択したいと考えます。つまり誰も見ていない番組よりも、みんなが見ている番組でCMを打ったほうが、当然宣伝効果が高いわけですね。さらに、民放テレビ局は複数ありますから、同じ時間帯でも、できるだけ視聴率の高い番組のCM枠を買いたいわけです。しかも、経済原則からいえば、視聴率の高い番組のCM枠であれば、それだけの価値があるために、相対的にそのCM枠の価格を上げることも可能になるわけです。民放の社員が「視聴率」に並々ならぬ執着を見せる理由のひとつです。

過去に、あるニュース番組で、スポンサーの業界に批判的な発言をしたら、そのスポンサーが降りた(CM枠の契約を解除した)とか、あるお笑い番組で、スポンサーの会社に批判的なネタを披露したら、そのタレントが番組から降板させられたとか、そういうニュースがあったのをご記憶かと思います。このことは、上記の事実を踏まえていえば、至極当然なわけですね。CMで自社の宣伝効果を高めたとしても、肝心の番組内でそのイメージを降下させることになっては、費用対効果の面では最悪になってしまうわけです。そうなるくらいならCM枠の契約自体しないほうが、出費がない分マシだということになるでしょう。民放の番組にはスポンサーの意向が反映されている、とよく言われるのはこれが理由であり、民放のビジネスモデルを考えれば、事実上、不可避です。

さて、翻って冒頭のNHKの話題ですが、ご承知の通り、NHKにはスポンサーが存在しません。NHKは国民と契約し徴収する受信料が事業収入となっています。いや、我々がお金を払っているのだから、我々がスポンサーである、と思われるかもしれませんが、それは(制度上、建前上は)間違いです。なぜなら、我々はその番組が気に入らないという理由では、契約を解除することはできない制度になっているからです(噂によると全く不可能ではないようですが)。

「国民の関心が高い内容を放送する」のは、そのフレーズだけを聞けば、確かに悪いことではないように思えます。しかし、「国民の関心が高い」=「視聴率が高い」であるとすれば、民放以外にNHKがわざわざ存在する意義とは何なのか、ということになります。大変疑問のある反論だと思います。

「メディア・リテラシー」をテーマにしたテレビ番組(2)

昨日の続きです。

メディア自身がメディア・リテラシーに言及するということは、自分達が突かれると痛いところに言及しなければいけないことになります。

どうしてでしょうか?

メディア・リテラシーのひとつの重要な要素として「メディアの伝える内容には善意・悪意に関わらず、必然的になんらかの偏向が含まれてしまう」ということがあります。

以前のエントリで、「ニュース番組でとりあげる事件を選ぶだけで、そこにはなんらかの意図が入り込む」というようなことを述べたと思います。私たちは普段なんとなく、メディアの報道内容は「中立」であり「客観的」であり「公平」であり、何よりその内容は「事実」である(あってほしい)という前提をもってそれに触れていると思います。実際、日本のメディア、たとえばテレビ・ラジオのようなメディアには「放送法」によって放送内容の公平性、中立性、事実性を保つことが義務付けられています。

であるがゆえに、たかがバラエティ番組の内容であっても、実験データの捏造があれば社会問題になったりするわけです。ニュース内容の選別は、事実を捻じ曲げているわけではないですが、ニュースでとりあげる事件の内容自体は「事実」であっても、選別基準の客観性や公平性、中立性に関しては私たちは注意を払わなければなりません。

メディア・リテラシーを知るということは、ある意味メディアに我々が期待している前提を覆すようなことになりかねません。
メディア自身が、メディアの中立性、公平性、事実性の成立の難しさを強調することは、放送法の点や視聴者の意識を考えると、非常に微妙な問題なのです。ですから、昨日のエントリで話題にした番組も、興味深い内容ではあったものの、メディア自身が言及している以上は、メディア・リテラシーの核心には迫りきれないジレンマ、すなわちメディア自身に不利益にならない程度の内容だけを選別せざるを得ない現実、があったように思います。

「メディア・リテラシー」をテーマにしたテレビ番組(1)

先日の日曜日だったかと思うのですが、民放のテレビ局で、「メディア・リテラシー特別番組」と題した番組が放送されていました。たまたま見つけただけなので、全篇通してみることはできなかったのですが、スポーツ報道の問題点をアスリートのインタビューを中心としながら浮き彫りにする、というような構成で、なかなか興味深く観ることができました。

例えば、元プロゴルファーの岡本綾子さんの場合、試合の当日の朝は集中力を散らさないためメディアのインタビューを受けないと言っているのに、構わず取材してくる記者の対応に困った話が語られました。元プロテニスの伊達公子さんの場合、海外の大会の記者会見は現地で公式会見があるのでと、帰国後の会見を断ったら、伊達さんに悪印象を与えるような記事を書かれてマスコミ不信になったという話が語られました。スノーボーダーの今井メロさんの場合、五輪直前のワールドカップで好成績を残したことから、メダル確実というような報道をされ、結果が伴わないと一斉に批判され自信喪失に陥ったという話が紹介されました。実際には有力選手はスノーボードのワールドカップにはエントリーしていないということをメディアは知っていたにも関わらずです。

上記の例を待つまでもなく、メディア自身がメディア・リテラシーに言及するということは、自分達が突かれると痛いところに言及しなければいけないことになります。

にも関わらずなぜそんな番組が作れるのか?
実はそれ自体に、メディアリテラシーを考える上でのヒントが少し隠されていると私は思います。

続きはまた明日以降に。

子供にケータイを持たせる戦略(2)

とある提案資料作成で、煮詰まってしまったので、こちらに一時逃避します。

前回の「子供にケータイを持たせる戦略(1)」で、携帯キャリアが子供にケータイを持たせるべく活動しているようだ・・・という所まで書きましたが、ここで、各携帯キャリア(ソフトバンクとウィルコムは啓蒙冊子が見つからなかったので除外し、ソフトバンクの代わりに旧ボーダフォン時代のチラシを参考までにとりあげます)の啓蒙用冊子の中身をご紹介したいと思います。主に、ドコモとauの冊子の比較を中心にします。
続きを読む 子供にケータイを持たせる戦略(2)

子供にケータイを持たせる戦略(1)

社団法人 電気通信事業者協会の発表によれば、日本の携帯電話の契約数は、平成19年2月現在でおよそ9576万にのぼります。一方、日本の15~64歳の総人口は、総務省統計局の発表によれば、およそ8341万人とのことです。

普通に考えて、高校生、大学生、社会人の人たちにはほぼ携帯電話が行き渡ってしまっていると考えていい状況です。

とすれば残る活路は15歳以下、65歳以上の人たちに携帯を持ってもらうしかありません。
年配の世代のほうは、時が経てば今の現役世代がそのままシフトしていって、次第に普及率が高まる可能性が高いですが、子供世代の方は、積極的に利用を推進していくことが求められるでしょう。

そんなわけで、携帯キャリアは各社とも子供世代に携帯を使わせようと熱心です。
携帯売り場に行くと、製品のカタログとともに、子供に携帯を使わせようとする啓蒙冊子が置かれています。

私の探し方が悪い可能性もあるのですが、ソフトバンクとウィルコムはその手の冊子が見つかりませんでした。ソフトバンクに関してはボーダフォン時代に冊子とは行かないまでもチラシ的なものを出していまして、それは手元にあります。

・・・というあたりで、長引きそうなので翌日に続きます。